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そして独身だった神島は、この本の上梓後、理論の実践として見合い結婚をしたのである。初めて読んだときは「へええ」としか思わなかったが、その後、恋愛結婚をしたらしい学者や評論家が、近代のロマンティック・ラヴ・イデオロギーを批判するのを見て苦々しく思うにつけ、神島は偉かったなあ、と思うようになったのである。つまり、神島と松田は「恋愛なんか必要ない」と喝破した知識人だったのである。
しかし、と私は思った。歌謡曲やトレンディードラマは、恋愛するのは当たり前のように騒ぎ立て、町には手を絡めた恋人たちが闊歩し、「恋愛結婚」する人の率は年々上昇している時代に、そう言われても、「恋愛をしたい」という憧れ、あるいは現実に恋をしてしまった苦しみをどう解消できるというのか。松田や神島のほかにも、恋愛不要論を唱える者はいる。松田の本を「名著」と呼ぶ呉智英もその一人だし、長谷川三千子もそうだ。しかしたとえば、恋愛はイデオロギーだとか幻想だとか言うだけならじつは簡単なことなのである。
問題は、どれほどの説得力をもって人をそうしたイデオロギーや幻想から「脱洗脳」することができるかである。そこで、まず松田の本を検討してみよう。恋愛にしか人生の喜びがないなんて…。正直言って、私は松田の本がそれほどの名著とは思えない。ただ「恋愛なんかやめておけ」と直言したところがすごい。内容的には、近代の有名人の恋愛・夫婦関係を紹介する形で、こういうものがそんなに人に幸福を与えるものではない、と説く形を取っている。ことに、女性の場合、下手にセックスをしたりすると、妊娠する可能性がある。
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しかし、こういう小説や映画は少数派である。神島は厨川白村を非難したが、実際には白村というより、膨大な量の小説、映画、歌謡曲等々が、私たちを「恋愛賛美」の方向へ向けて洗脳してきたのである。だが、この洗脳を解除するのは、オウム真理教や統一協会の信者の洗脳を解除するのより遥かにむずかしい。彼らは一般社会のなかの少数者にすぎないが、「恋愛教」は一般社会に完全に浸透しているからだ。
恋愛結婚の起源。ところで、私はまるで自明のことのように「恋愛結婚」と「見合い結婚」を対比させてきたが、もちろんこの区別はけっこう暖昧なのである。「恋愛結婚」と言っても友達に紹介されたというような限りなく見合いに近いものもあるし、あるいは友達同士が「まあ気も合うし、結婚するか」みたいな形で結婚することもある。